其の十 いざ!「神武東征」の古戦場へ!!(続編)

その4 神武天皇編


今回のアップは2018年5月13日です。

 

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2017年12月23日の天皇誕生日に訪れた

 

「神武東征」古戦場シリーズの続編となります。

 

先にそちらの記事から読まれますことをおすすめします。

 

 

 

筆者、神武天皇とニギハヤヒに呼ばれる


「リュウと春麗の神結び 其の九」を書き終えた時点で、神様のご神示までたどり着いちゃあ、もう筆者の出る幕はもうないな~。これで本当に終わりなんだな~。と思っていました。そしてすべてのきっかけを与えてくださった石切神社の神様にお礼参りさせていただこうと思っていました。

 

 

その夜、夢に天皇皇后両陛下が出てこられました。筆者は博物館にいて、両陛下がすぐ近くにおいでになってそれぞれサイン(調印)をされたのでした。

 

 

その翌日、去年の天皇誕生日に石切神社で購入したおまもりが壊れていました。

 

石切劔箭神社御守
石切劔箭神社御守

 

これは神様からのサインだと思い、二日後に石切神社にお参りさせていただくことになったのでした。今回は、そのことについて書いてまいります。

 

石切参道(筆者撮影)
石切参道(筆者撮影)

 

2018年4月22日日曜日午前10:30石切到着。なお、この日の予定は

 

①石切神社(上の社)

②旧生駒トンネル

③春日神社

④石切神社の参道で明石焼きを食べる

 

というコースを想定していました。最後の明石焼きは重要でして、幼少時からここの明石焼きは最高においしくて筆者の大好物なのです。筆者にとって石切さんに行くということはここの明石焼きを食べるのが目的というのが本心なのであります。

 

石切参道(筆者撮影)
石切参道(筆者撮影)

 

近鉄石切駅を線路沿いに南に向かって歩けばこの石碑があります。ここの高架下をくぐって写真奥の坂道をひたすら上がれば上の社です。

 

石切神社上之宮(筆者撮影)
石切神社上之宮(筆者撮影)

 

かなり急勾配の坂道を上がってたどり着きました。とはいってもここからさらに階段が。

 

石切神社上之宮(筆者撮影)
石切神社上之宮(筆者撮影)
石切神社上之宮(筆者撮影)
石切神社上之宮(筆者撮影)

 

10:45石切神社上の社に到着。まずはご参拝。ご祭神はニギハヤヒ。ここの神様に去年の夏、ふと呼ばれたような気がしてお参りに行ったらお祭りでした。その日をきっかけにこの神様に隠された謎解きがはじまったのでした。(そのきっかけ

 

石切神社上之宮(筆者撮影)
石切神社上之宮(筆者撮影)

 

壊れたお守りをお返しして、新たに御守りを購入させていただきました。そして石切の御滝へ向かいました。

 

石切神社上之宮(筆者撮影)
石切神社上之宮(筆者撮影)

 

水の出口はとても小さく、白糸のような滝です。白蛇のようなそのお姿はニギハヤヒの化身を表しているのかもしれないと思いました。

 

石切神社上之宮(筆者撮影)
石切神社上之宮(筆者撮影)

 

滝から戻る途中、風もないのに上から葉っぱがたくさん降ってきました。これは神様からのサインだと思いました。こういうとき、深い感謝が込み上げてくるのです。

 

石切神社上之宮「登美霊社」(筆者撮影)
石切神社上之宮「登美霊社」(筆者撮影)

 

登美霊社。ニギハヤヒの妻でナガスネヒコの妹であるトミヤヒメの社です。まずはご参拝。縄文の社はとても居心地が良く、何度訪れても立ち寄りたくなるお社です。

 

石切駅から大阪平野を望む(筆者撮影)
石切駅から大阪平野を望む(筆者撮影)

 

さて、次に向かうは旧生駒トンネル。いったん石切駅に戻って道沿いを北へと向かいます。その途中で眼下に広がる大阪平野を一望できます。

 

旧生駒トンネル(筆者撮影)
旧生駒トンネル(筆者撮影)

 

11:25分旧生駒トンネルに到着。石切駅から10分ほどのところに旧生駒トンネルはあります。

 

旧生駒トンネル(筆者撮影)
旧生駒トンネル(筆者撮影)

 

新緑がまぶしいのも相まって、もう負のエネルギーは感じられませんでした。(前回エピソード

 

日下新池(筆者撮影)
日下新池(筆者撮影)

 

11:35日下新池到着。ここは旧生駒トンネルから春日神社へ向かう途中に立ち寄れる場所なので、今回も訪れてみました。この日はカモさんはいませんでした。

 

日下新池(筆者撮影)
日下新池(筆者撮影)

 

池の向こう側のパンドラの丘に行ってみました。ハイキングコースの休憩所のような場所になっていました。

 

日下新池(筆者撮影)
日下新池(筆者撮影)

 

なんと! このあたりに古墳があるようです。ここから1キロメートルも歩くのですか!? 山歩きは予定外ですので退散~~=3 ちなみに「イノラムキ」の由来は、「太陽に向かって祈る」という意味がこめられています。

 

日下新池(筆者撮影)
日下新池(筆者撮影)

 

この一帯は生駒山でも日下山(くさかやま)と呼ばれていてハイキングコースになっています。

 

日下町付近(筆者撮影)
日下町付近(筆者撮影)

 

きれいなお花もたくさん咲いていて一人歩きも退屈しません。さて、次に目指すのは春日神社です。もう何度も通っているので地図なしでレッツゴー。

 

丹波神社(筆者撮影)
丹波神社(筆者撮影)

 

さすがは超方向音痴の筆者。違う道を歩いていたようです(-_-;)。というのは、ここ「丹波神社」の前を通ったのははじめてだったからです。ここの神様は江戸時代の日下村の領主だった方だそうです。

 

日下神社(筆者撮影)
日下神社(筆者撮影)

 

その次は「日下神社」の前を通りました。ここの神様にもご参拝させていただきました。

 

日下町付近(筆者撮影)
日下町付近(筆者撮影)

 

それにしても「地図なしで行ける!」という自信はどこから来たのか!? それでも今日は迷いなく行ける感じがして地図なしで突き進んでいきました。こういう案内はとても助かります。

 

大龍寺(筆者撮影)
大龍寺(筆者撮影)

 

案内を頼りに「大龍寺」まで来ました。せっかくだからご参拝させていただきました。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

「日下くさか)山直越えの道」というのはもしや・・・・春日神社の「孔舎衙くさか)坂直越えの道」とは違うのかもしれない(゚д゚)!と、ここまで来てやっと気が付きました。どちらも「くさか」だから行けるよね~と思っていたのです。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

ここから先はどう見ても山の入り口です。行きつくところまで行ってみることにしました。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

時刻は12:20。日下直越え道の入り口には案内がありました。「五瀬命負傷碑」って・・・ここから先は、神話の世界!? 「いつせのみこと」というのは神武天皇の長兄で、ナガスネヒコが放った矢が五瀬命に当たりその傷を洗った場所が「龍の口霊泉」なのです。そして「神武天皇顕彰碑」というのはもしや・・・。

 

日下山周辺地図(筆者加工)
日下山周辺地図(筆者加工)

 

山の中にある「神武天皇孔舎衛坂顕彰碑」のことでは!? 筆者はここを地図で見て知っていました。でもあまりにも山奥にあるので、ここは絶対行くことはないな~と思っていたところだったのです。ちなみに赤線で囲ってある場所はすべて訪れた場所です。

 

日下山周辺地図(筆者加工)
日下山周辺地図(筆者加工)

 

☆印が現在地(上の画像の道しるべ)です。ちなみに右下には日下新池で道しるべのあった古墳があります。

ともかく神武天皇の顕彰碑は予定の目的地ではありません。さっさと引き返して春日神社へと向かいましょう~と思ったそのとき。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

このまま進むように」という直観が来ました。「ええ~っ!? だって、山ですよ?ハイキングの装備も何も、ロングスカートですし、無理ですよ!それに水一本持ってきていないです」と顕在意識では抗いましたけれど、進まなきゃいけないような気がものすごくしたので、とりあえず行けるところまで行ってみることにしました。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

まだ藪で道がふさがれていなかったので、何とか進んでいきました。そこで出くわしたのが川。スニーカーを履いてきたのでここまで来れたものの、これを越えなくちゃいけない。やばそうですから戻ります。川を超える前に引き返します。と思いつつ川の前でたたずんでいました。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

でも、ものすごく背中を押されているような、行かなきゃいけないような気がしていました。見上げれば空は晴れ。そしてここしばらく雨が降っていないので川は増水していないし、山道も乾いている。雑草もそれほど生えていない。なんといっても虫がいない!!今日は4月22日。この地を訪れるには絶好の日だったのかもしれない。そして太陽は真上にある。

 

 

そこではた、と気付いた筆者。自分はここへ来るために呼ばれたんだと。その思いはなぜかとても納得がいくものでした。ここへは自分の意思で来たのではなかったからです。確かに顕在意識では怖くて行きたくないけれどそれは自我なんだ、神様にすべてをゆだねてなすがままになってみようと決心しました。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

知らない山道を歩き続けること20分。この間、何度不安が沸き起こってきたことか。そのたびに自我を打ち消して神様を信じきる。まかせきることに切り替えて進んでいきました。道しるべに出会うとホッと胸をなでおろすのです。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

「大岩瀧」とはいえ、水量が少なかったので瀧らしい瀧ではありませんでした。この川の水量がもう少し多ければ、きっと渡れなかったと思います。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

超方向音痴の筆者が山歩きの装備もしないで単独で山に入るなど、自分の意思なら100%ありえませんでした。そもそも神武天皇が通ってきた暗峠(くらがりとうげ)の山道を歩くのが子どものころからとても嫌だったのに、まさか、その暗がり峠を通って来られた神武天皇の顕彰碑を目指して山に入るなんて・・・。自分では想像もつかないまさかの展開はまさしく神様の御意思・・・。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

不思議なのですが、守られている感がものすごくありました。大丈夫、きっとうまくいく。だから迷わずに進んでいける。だってこの山はニギハヤヒ山なのですから。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

つい去年の夏まで、神話なんてまったく興味がなかったし、神様のこともほとんど知りませんでした。それがこのような体験をすることになろうとは・・・。人生っておもしろい!!

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

最初のためらいがどこかへ吹っ飛んで、どんな展開になるのかが楽しみになっていきました。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

今回与えられた課題は「自分を捨てきって、神様を信頼してゆだねる」ことの実践行動ができるかどうか。歩きながらそのことに気づきました。それをクリアーできなければ次に進めないのが仕組み・・・。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

太陽の光に照らされていると、とても安心感があるのはなぜなのだろう。きっとこの日が曇っていたら、前に進む勇気がわいてこなかったはず。本当の太陽の神様が創造される世界は、影なき世界。これまでの影ある世界は幻の世界、偽りの世界・・・。見破ってしまえばもう、恐れることも惑わされることもない。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

縄文の世界はきっと、映画『アバター』のような世界だったのでしょう。人は精霊たちと交流し、神とともにすべてが大調和したすばらしい世界を創造していた。そこへ別の惑星地球から来た米兵が軍隊を引き連れて侵略しにきたというストーリー。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

後世になって侵略者が英雄として称えられているのは、人類が集合意識レベルで錯覚させられているから。宇宙とは逆向きのエネルギーが生み出したのは支配と奴隷、病気と飢饉、刑罰と租税。そして重労働という消耗系システム。そのエネルギーはヒエラルキーの頂点に一極還流するしくみ。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

大調和のエネルギーは、より多く与えた者がより多くのエネルギーが還流されるという分かち合いの循環系システム。一方不調和のエネルギーは、より多くを奪った者が富を独占できるという奪い合いの消耗系システム。

 

 

後から来た王が先の統治者の名前と存在を封印して人々の記憶から消し去ったのは、循環系のシステムがそのまま存在していたら、消耗系システムは維持することができなくなるから。

 

 

消耗系は滅びの道。けれど神が望むのは和合の道。それは滅ぼすよりもはるかに難度の高いスキルを必要とする。そのスキルを持たされたのが我々日本人なのです。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

何かが見えてきた! この坂を登り切れば何かがあるはず。

 

神武天皇孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

12:50神武天皇顕彰碑。入り口から歩くこと30分。一度も迷わずトラブルに遭わずに来れました。神様ありがとうございます!! 

 

神武天皇孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

ここは神武天皇がナガスネヒコに撃退されてしまった敗因を「太陽に向かって戦ったから」だと悟られ、今度は御自ら太陽を背にするべく、紀伊半島をまわって熊野から上陸して吉野、暗がり峠を通過してこの日下山を上がってこられた場所。ごらんのように、太陽を背にして碑が立っています。

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

昭和15年の紀元2600年記念行事に建てられた神武天皇顕彰碑。違和感があるのは、地名が間違っていること。「孔舎衙(くさか)」を「孔舎衛(くさえ)」にされています。旧生駒トンネルの駅も「孔舎衛」にされました。本来は地名も人名も、難読であったとしても変えないものです。

 

 

地名を書き換えるのはその土地の情報を隠したい意図があるから。この土地には孔舎衙(くさか)と日下(くさか)の両方の地名がある。「孔舎衙」が難読ならば「日下」と表記すればよい。けれど、「日下」の地名はあえて選択しなかった。その意図は? 日下は日の下(ひのもと)。ひのもとは日の本。けれどこの国を日本(にほん)とはじめて名乗りを上げたのは、天照大神を女神にした女帝持統天皇。

 

 

本当の日本はひのもと(日の下)です。太陽の下の国。日の下(ひのもと)の神は男神天照大御神。その御神名は天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命。すなわちニギハヤヒ。循環系システムの皇祖神。この神の遺伝子を受け継いだのがわたしたち日本人なのです。

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

支配者は日本人から日の下の国の記憶を消すことはできても、遺伝子に刻まれた情報を消すことはできなかった。けれど眠らせておくことはできる。

 

 

それは映画・テレビによって洗脳することで(スクリーン)。それは人々を競争させることで(スポーツ)。それは性エネルギーを誤った情報で貶めることで(セックス)。それは舞い上がらせて有頂天にさせることで。(神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気、そしてバブルまで)

 

 

けれど表の座に就いた権力者は、日本人を3S政策で洗脳することに成功しても、日本人を有頂天にさせることに嫉妬したため、日本人からことごとく収奪して飢餓状態にしてしまった。

 

 

飢餓と渇望感は引力がはたらくため、遺伝子の情報を目覚めさせてしまうことを権力者は知らなかったのです。すなわち、日本人の魂が九分九厘負けたときに、神一厘のしくみ=縄文遺伝子が発動し、目覚めることになっていたのです。

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

なぜ、わざわざこのような巨大な石碑を各地に設置しなければならなかったのか。紀元2600年記念行事が行われた頃は、戦争への幕開けでもあったのです。日本を戦争に誘導するために神武天皇を伝説の英雄として人々の集合意識に植えつけておく必要があったとしたら?

 

 

この時代に日本政府にとって都合の悪い神社を国がことごとく潰していったのはなぜ?(国家神道についてヤフー知恵袋

 

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑周辺(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑周辺(筆者撮影)

 

出雲系の戦わない皇祖神を人々の記憶から消して、伊勢系の戦う神を皇祖神の系譜にすれば、日本人を戦争に誘導することができる。

 

 

そして改竄した神話を表にすることで、最強と恐れられた日本人の遺伝子を封印して自尊心を失わせ自虐史観を植えつけておけば、戦争に負けさせることができるという意図が隠されていたとしたら?

 

 

 「神武東征」は大調和の循環系システムを築いてきた神と人を引き裂くためのプログラムだったとしたら?

 

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

そのプログラムは九分九厘成功し、神と人は分離した結果、日本は不調和の極みを体験し尽くして現在に至る。けれど、消耗系システムの文明はもう終わる。宇宙がそれを終わらせる。封印されてきた神々が次々に復活しているのはそれがため。

 

 

宇宙は大循環系システム。現在の地球は最終段階にあるため、今後宇宙と同調しない存在は消滅し、永遠に消え去ることになる。そしてどの存在も消滅を望んではいない。

 

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

権力者が古来より不老不死を求めてきたのは永遠に生き続けたいから。物質界で永遠の命を得ることができさえすれば魂の消滅は免れると考えたから。けれど物質界は幻の世界。消耗系システムの魂はいずれ消滅するのが宇宙の定め。彼らにとって残された唯一の希望は、和合の道。

 

 

縄文と弥生の神々の和合のご神事に歴代天皇の御霊もご同席されたのは、彼らも消滅することだけは免れたかったからなのでしょう。

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

対極のシステムが地球に存在した理由は、三次元地球領域で和合を果たすため。それが宇宙の実験の場として創造された惑星地球の本当の目的だったのだと、やっとわかりました。

 

 

そして相反するエネルギーを束ねることができるのは、太陽の民の遺伝子を持たされた日本人の役割だったのです。

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑周辺(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑周辺(筆者撮影)

 

その役割を果たすために、かつて神と人が一体となって大調和の世界を創造していた頃の記憶を取り戻して、再び実践行動するためにわたしたちは日本人として、今この時代を選択して転生してきたのです。

 

  

わたしは神武天皇の顕彰碑の前にじっとたたずんでいた。何を思うわけでもなく、何をするわけでもなく、ただ、神武天皇と饒速日命、そして長髄彦にそれぞれ「ありがとうございます」とそれだけを祈っていた。それ以外に何もないと思った。

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

  

『日本書記』という文字が間違っていることに気づかないでこの看板を設置した大阪府教育委員会は、神話のことなど何も知らずに設置したのでしょう。(正しくは「書紀」)

 

 

この土地でさえも、ニギハヤヒとナガスネヒコがともに国造りをした事実を語ることはタブーだった。あくまでも神武天皇が大和を平定しに来られた武勇伝として語り継がれている。

  

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

そしてナガスネヒコは神武に逆らった国賊として汚名を着せられてきた。スサノオと同じように。一方で、明治以降に英雄として崇められた神武天皇は、日本政府に利用された神だったのかもしれない。

 

 

 

紀元2600年記念行事に建てられた巨大な石碑を伝承地に設置したのは、ねつ造した神話を既成事実にしたい意図があったからなのでしょう。その手法は現代においても存続している。それが慰安婦像。

 

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(筆者撮影)

 

そもそも戦わないやさしき神が、ともに国造りした義理の兄を殺すだろうか? 義理堅く忠誠を尽くした家臣を「性質がねじれている」といって惨殺できるだろうか? 神話と言えども、ストーリーに齟齬があることは語られない。けれどもう、日本人は目覚め始めた。今までのように日本人をコントロールすることはできなくなっていく。

 

 

敗者は必ず復活する。一度負けた者は数段レベルアップして復活する。封印されていた縄文の神々は陸続と復活している。和合を果たすために。

 

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

神武天皇顕彰碑を後にして、龍の口霊泉へ向かうことにしました。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

大丈夫。きっと無事にたどり着ける。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

こういう広い空間に出ると、とても心強くなる。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

道しるべが勇気を与えてくれる。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

自然を楽しむ余裕さえ与えてくれる。

 

龍の口霊泉(筆者撮影)
龍の口霊泉(筆者撮影)

 

13:10龍の口霊泉に到着。迷わずにたどり着けました。神様ありがとうございます。ここに、ひとりのおじさんが何かの作業をしておられました。人に出会えたことに心からホッとしました。

 

 

おじさんは「女の子がひとりでこんなところによく来たね」とビックリされていました。「わたしもビックリしているんです。史跡巡りしていたらここまで来ちゃいました~」と言いました。

 

龍の口霊泉(筆者撮影)
龍の口霊泉(筆者撮影)

 

ここの水質はあまり良くないらしく、生水を飲まないでくださいと注意書きがありました。

 

 

神話では、五瀬命(いつせのみこと)がナガスネヒコが放った矢で負傷した傷をこの霊泉で洗ったとされています。五瀬命は後に傷がたたって死んでしまいます。神武は兄を失ったことでさらにナガスネヒコへの恨みを抱き、再びこの地に攻め入るのです。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

おじさんはこのあたりに詳しい方で、帰り道を教えてくださいました。おじさんは神様だと思いました。神様はちゃ~んと守ってくださっている。しみじみとありがたく思いました。本当に感謝です。

  

 

下はどなたかが有志で看板を立ててくださったようです。ありがとうございます。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

下りの山道を道なりに降りていきます。大阪平野が垣間見えます。

 

日下山直越の道(筆者撮影)
日下山直越の道(筆者撮影)

 

阪奈道路が見えてきました! 龍の口霊泉から20分ほどで降りてこられました。

 

阪奈道路より大阪平野を望む(筆者撮影)
阪奈道路より大阪平野を望む(筆者撮影)

 

阪奈道路は急こう配の峠道。ビュンビュン車が走る道をとぼとぼ歩いていきました。(阪奈道路を徒歩で歩くことは危険ですからおすすめしません)おじさんに教えてもらった通り、途中でショートカットして下に降りられる場所までたどり着きました。

 

大阪稲荷山神社(筆者撮影)
大阪稲荷山神社(筆者撮影)

 

その地点の阪奈道路のガードレールを乗り越えて下に降りたら、稲荷神社がありました。稲荷の神様にも感謝をお伝えしました。ここは動物霊園の神社でした。そこで自販機を見つけたので、お水を買いました。朝からコーヒー一杯しか飲んでいなかったので、生き返りました。

 

善根寺町周辺(筆者撮影)
善根寺町周辺(筆者撮影)

 

民家が見える! ホッとしたと同時に、次なる目的地への道に通じていることがわかり、最短距離でここまで来られたことが判明。まことにありがたいことです。

 

善根寺春日神社(筆者撮影)
善根寺春日神社(筆者撮影)

 

14:00春日神社に到着。龍の口から50分間歩き続けてたどり着きました~。

 

善根寺春日神社(筆者撮影)
善根寺春日神社(筆者撮影)

 

ここは地名通りの「孔舎衙坂」なのです。さあ、気を取り直して階段を上がります!!

 

善根寺春日神社(筆者撮影)
善根寺春日神社(筆者撮影)

 

今回はこの場の雰囲気は随分よくなっていました。心なしか古戦場の碑が輝いて見えます。(前回エピソード

 

善根寺春日神社(筆者撮影)
善根寺春日神社(筆者撮影)

 

安岡先生は日本人としてGHQと対等に交渉してくださった唯一の方でした。GHQが戦争に負けて疲弊しきった日本人を白痴化洗脳計画で骨抜きにしようとしていることを知らせてくださったのが安岡先生です。そのひとつが3S政策でした。

 

善根寺春日神社(筆者撮影)
善根寺春日神社(筆者撮影)

 

なんと、鹿さんがこんなところに!? ここへは何度も訪れているのに気づきませんでした。春日神社なのに鹿さんがいないのは変だなと思っていたのです。なぜか奥まったところに鎮座されていました。

 

善根寺春日神社(筆者撮影)
善根寺春日神社(筆者撮影)

 

これまた奥まったところに十六菊花紋の祠がひっそりと祀られていました。

 

善根寺春日神社(筆者撮影)
善根寺春日神社(筆者撮影)

 

日本最初の春日神社が神武東征の古戦場に祀られたのにも理由があったはず。主祭神はアメノコヤネノミコト様。神武天皇をお助けされた天孫補弼(てんそんほひつ)の神であり、天の岩戸開きの神事宗源の神様です。

 

 

中臣家の祖神ですので藤原一門の氏神様です。藤原氏は神武天皇の系譜と親戚関係ですから、春日神社が古戦場を抑えているのはごもっともなのです。

 

 

ちなみに、春日神社の大元は河内の国一之宮・枚岡神社。枚岡神社の所在地は東大阪市出雲井町。元春日は出雲を制していたのでした・・・。

 

石切参道商店街(筆者撮影)
石切参道商店街(筆者撮影)

 

さて、春日神社のご参拝も済んだことだし、最後の目的である「明石焼きを食べる」ミッションのために全力で石切にリターンします。春日神社から急こう配の道を歩きます。かなりキツイ!! かなりバテていたので春日神社から石切駅まで徒歩1時間もかかってしまっていました。( ;∀;) きっと坂道を思考停止状態でだらだら歩いていたのでしょう・・・。

 

石切大仏(筆者撮影)
石切大仏(筆者撮影)

 

石切さんは「日本で三番目」とか「世界で二番目」とかが多くて、とても謙虚な土地なのです。さすがは一番をお譲りした神様のホームグラウンド。

 

石切参道商店街(筆者撮影)
石切参道商店街(筆者撮影)
石切参道商店街(筆者撮影)
石切参道商店街(筆者撮影)

 

石切さんは占いのメッカであり、土産屋、飲食店、漬物屋、漢方薬局などなど、大阪スピリット満載の「石切テーマパーク」なのであります。

 

 

河内の人は人懐っこくて世話焼きで裏表がなく、相手のことを「我(ワレ)」と言います。<(_ _)> 河内弁は決して口が悪いのではなく、縄文スピリットが地元の言語に残っているのです。「あなたはわたし、わたしはあなた」と。

 

 

そして大阪人は、相手のことを「自分」と呼びます。他府県の方は戸惑われるでしょうね(笑)

 

石切参道商店街(筆者撮影)
石切参道商店街(筆者撮影)

 

15:30。なんと春日神社から歩くこと1時間30分。 やっと・・・やっとたどり着きました。念願のたこつぼさんの「明石焼きを食す」最終ミッション。いつもは行列ができているお店ですが、お客さんは一組だけでした。実は閉店30分前だったようですが、やさしくもてなしてくださいました。たこつぼさんは、わたしを待っていてくださったのですね・・・(涙)

 

石切参道商店街「たこつぼ」(筆者撮影)
石切参道商店街「たこつぼ」(筆者撮影)

 

ここの明石焼きは本場の明石まで行かなくてもおいしい明石焼きがいただけます。(実は明石の明石焼きよりも安くておいしいと思っています。)うれしいのはおつゆが二杯分用意されていて、しょうがと三つ葉が自由にトッピングできるという二種類のおいしさを味わえる上に、600円という安さ!とてもありがたい明石焼きなのです。朝から何にも食べていないので、おいしさはひとしおでした。

 

 

朝の石切駅到着からジャスト5時間。今日はよ~~く歩きました。まさか山を歩くなんて思いもよらなかったですけど、楽しかったな~。こんなハプニングもたまにはおもしろいね。神様の道具として働きますと決心したからにはこういうことも覚悟しなくちゃいけないんだな~と思いました。けれども神様とともに行動させていただく体験は、至福のよろこびなのだな~と思いました。魂はそれを願っていて、心からのよろこびを感じていたから。

 

石切参道商店街(筆者撮影)
石切参道商店街(筆者撮影)

 

念願の明石焼きをいただけて満願成就。最後に石切神社の本社へお参りして帰ります。

 

石切参道商店街(筆者撮影)
石切参道商店街(筆者撮影)

 

参道の写真を撮っていて、なんとなく「ここだよ」という直観が来まして、先ほどのアーケード写真の右端に引き寄せられました。

 

石切神社神武社跡地(筆者撮影)
石切神社神武社跡地(筆者撮影)

 

なななななんと、そこは神武天皇をお祀りしていた跡地。。。石切参道は何回も通っているのに、一度も気づかずにスルーしていました。まさか神武天皇に呼ばれた・・・?? 先ほどの山中で神武天皇顕彰碑のご参拝が最後じゃなかったのですね。もちろんここでも感謝をお祈りさせていただきました。きっとここはかなり古い時代の跡地だと思われます。上の社は神武二年、本社は崇神天皇の時代に創立だそうですから・・・。

 

石切神社(筆者撮影)
石切神社(筆者撮影)

 

さて、参道にそびえたつ石切神社本社の鳥居をくぐります。

 

石切神社(筆者撮影)
石切神社(筆者撮影)

 

時刻は16:00。お百度参りの参拝客は夕方になっても後を絶ちません。石切さんはとにかく大人気の神様なのです。その正体は知られていないけれど。そしてその正体を知ったら、きっとビックリするにちがいないのですけれど(笑)

 

石切神社(筆者撮影)
石切神社(筆者撮影)

 

画面中央の社が現在の神武天皇のお社です。今日は神武天皇メインのご参拝だったのだな~と改めて感謝いたしました。

 

石切神社「水神社」(筆者撮影)
石切神社「水神社」(筆者撮影)

 

さて、水神社の神様であるみつはのめ(瀬織津姫)さまと亀さんにもご挨拶して、再び石切駅目指して坂道を登りました。

 

『ガイアの法則』千賀一生著
『ガイアの法則』千賀一生著

 

電車の車内では本を読んでいました。なぜかこの本を読まなきゃと思って持ってきていました。とても興味深く読んでいました。( ..)フムフム

 

 

石切から帰宅したときはくたくたで、思考停止していたので気づかなかったのですが、この本を読み終わってから数日後に大変重要なことに気づかされることになるのです。

 

HP掲載神社
HP掲載神社

 

上は今までHPに掲載してきた神社です。グーグルでチェックを入れてみました。するとあることに気づかされたのです。

 

『ガイアの法則』より。
『ガイアの法則』より。

 

『ガイアの法則』によりますと、宇宙の回転周期に合せて地球の文明が法則的に決定されているそうです。その法則を「聖なるリズム」といい、東経135度ライン上が次の文明の中心になるということでした。

 

 

東経135度といえば、明石・・・。最後の「明石焼きを食べる」ミッションは、まさにこのことの暗号だったとは!!(゚д゚)ヒョエー!!🐙タコモビックリ!!

 

東経135度+1.4度エリア地図(筆者加工)
東経135度+1.4度エリア地図(筆者加工)

 

東経135度プラス1.4度のエリアが次の文明の中心になるのが宇宙の「聖なるリズム」で決定しているのだそうです。石切から帰って来て、なぜに神武天皇が執拗に古代大和の地を征服したがっていたのかを考えてみたときに、グーグルマップで「神武天皇」と検索すると、上のような結果が出たのです。(ちなみに、全国エリアで見ても検索結果は上のエリアしか出ませんでした)

 

 

要するに、ニギハヤヒの治めていた古代大和は東経135度+1.4度エリアにあって、神武天皇はそのエリアを後から陣取りに来たということだったのです。なぜならば、そのエリアが次の日本文明の拠点地だからです。

 

 

このエリア内に藤原京や平安京などの多くの都が敷かれ、京都御所があり、天皇の拠点となってきました。そして、このエリア内に元伊勢元出雲があるのです。

 

『ガイアの法則Ⅰ』p242
『ガイアの法則Ⅰ』p242

 

『ガイアの法則』では、シュメールの神官が著者と対話形式で隠されてきた叡智を記されています。上はその一部です。

 

 

シュメールはスメラ。シュメールの王がスメラミコト。シュメールには天皇家との共通の十六菊花紋のシンボルが多用されています。そしてユダヤ教会には十六菊化花紋と六芒星(ダビデ紋)が掲げられています。

 

 

シュメール文明を遡れば日本の縄文がふるさとであり、シュメールの叡智を受け継いだごく少数のユダヤ人もまた、同じく日本列島がふるさとだったのです。彼らはロスチャイルド家とは無関係のユダヤ人で国を持たない民ですが、ルーツをたどれば日本がふるさとだったのです。

 

 

要するに、シュメール文明の根本は日本列島が起源の縄文にあり、シュメールの叡智を受け継いだ渡来系の秦氏は日本に帰ってきた一族だったのです。

 

 

このことを裏付ける内容が『ひふみ神示』にありました。

 

  

光の巻 

 

第六帖 (四〇二)

 


 今に世界の臣民人民 

 

誰にも判らん様になりて

 

上げもおろしもならんことになりて来て、

 

これは人民の頭や力で

 

やってゐるのでないのざといふこと

 

ハッキリして来るのざぞ。

 

何処の国、

 

どんな人民も成程ナアと

 

得心のゆくまで

 

ゆすぶるのであるぞ。

 

今度は根本の天の御先祖様の御霊統と

 

根元のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが

 

一つになりなされて、

 

スメラ神国と

 

ユツタ(ユダヤ)神国と

 

一つになりなされて

 

末代動かん光の世と、

 

影ない光の世と致すのぢゃ、

 

今の臣民には見当とれん

 

光の世とするのぢゃ、

 

光りて輝く御代ぞ楽しけれく。

 

悪い者殺してしまふて 

 

よい者ばかりにすれば、

 

よき世が来るとでも思ふてゐるのか、

 

肉体いくら殺しても魂迄は、

 

人民の力では何うにもならんであろがな。

 

元の霊(たま)まで改心させねば、

 

今度の岩戸開けんのぢゃぞ、

 

元の霊(たま)に改心させず

 

肉体ばかりで、

 

目に見える世界ばかり、

 

理屈でよくしようとて出来はせんぞ、

 

それ位 判って居らうが、

 

判りて居り乍ら他に道ないと、

 

仕方ないと手つけずにゐるが、

 

悪に魅入られてゐるのぢゃぞ、

 

悪は改心早いぞ、

 

悪神も助けなならんぞ、

 

霊(たま)から改心させなならんぞ、

 

善も悪も一つぢゃ、

 

霊も身も一つぢゃ、

 

天地(アメツチ)ぢゃと

 

くどう知らしてあろが。

 

何んなよいこと

 

喜ばして知らしても、

 

聞かせても、

 

今の臣民人民 

 

中々云ふこときかんものぢゃぞ。

  

この道にゆかりある者だけで

 

型出せよ、

 

カタでよいのぢゃぞ。

 

六月三十日、ひつぐの神。

  

 

 

東経135度+1.4度エリアで出雲と伊勢、縄文と弥生の神々が和合した世界が新たなる日本文明であり、半霊半物質の五次元世界となるのでしょう。

 

 

すべては完璧に仕組まれていたのだなあ、と思うと、人間の自我がいかにつまらないことであり、囚われに過ぎなかったかを目が覚めるように思い知らされました。

 

 

夢で天皇皇后両陛下が出てこられて、その翌日に天皇誕生日に買った石切神社のお守りが壊れていた。このサインからはじまった今回の「続・神武東征古戦場ツアー」。筆者の想像をはるかに超えた展開に、ただただ畏敬の念を抱くばかりです。

 

 

石切から帰ったその夜は、夢に元棋士のひふみん先生が出て来られたのでした。と〜ってもやさしいおじいちゃん役で甲斐甲斐しくおもてなししてくださったありがたい夢でした。

 

 

実はまだ続きがあります。このページはかなり重くなってきたので次のページに書きますね。