リュウと春麗の神結び 其の六

いざ!「神武東征」の古戦場へ!!

その3 枚岡神社編


 

今回のアップは2018年3月7日です。 

 

💖

 

筆者は2017年12月23日(天皇誕生日)に

 

どうしても古戦場に行かなければならない気がしたので

 

日本神話「神武東征」の古戦場に行ってきました。

 

その記録を三部に分けて記してまいります。

 

 その1は筆者の原点・石切神社へ。

 

その2は古戦場・旧生駒トンネルへ。

 

そして今回は、古戦場から河内の一之宮・枚岡神社へ。

     

 

筆者のもう一つの原点「河内国一之宮・枚岡神社」へ


石切周辺地図
石切周辺地図

 

 

さて、クルクル泳いでいた日下新池のカモさんにありがとうをお伝えして次に向かうは、善根寺春日神社。日下新池からさらに北へと歩きました。

 

神武天皇聖蹟盾津顕彰碑(筆者撮影)
神武天皇聖蹟盾津顕彰碑(筆者撮影)

 

実は前回「暗号解読Ⅱその10」の取材のために神武天皇聖蹟盾津顕彰碑を訪れた後、スマホの回線が遮断されてしまいマップが使えなくて迷子になってしまったのです。まあいいか、と気の向くままに歩いてたどり着いたのが、春日神社でした。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

春日神社はまったく知らない神社でした。この神社には「孔舎衙坂直越登り口」の碑が立っていて、あまりの偶然にこの前で呆然と立ち尽くしてしまったのでした。それもそのはず。この階段を上がれば神武天皇とナガスネヒコが戦った「孔舎衙坂の戦」の戦場なのですから。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

今回はもう一度きちんとご参拝させていただくために訪れました。上のご由緒には、日下新池でのくるくる泳いでいたカモさんから暗号(カモ⇒賀茂氏⇒八咫烏⇒神道奥義)を読み解いてわかった、

 

 

記紀の奥義の一つに、すべての神道祭祀が開始されたのは、「天の岩戸開き神話」からとあり、「天の岩戸開き神話」において、祭祀の中心はアメノコヤネノミコト(天児屋根命)、アメノフトダマノミコト(天太玉命)である。

 

 

ということでしたが、ななななんと!!ここ春日神社の神様は、アメノコヤネノミコト(天児屋根命)さまだったのです!!!( ゚Д゚)ヒョエー 

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

この階段を上がれば古戦場。前回と同じく、ここはちょっと近寄りたくない雰囲気が・・・。しかし神様のお導きとあれば仕方ありません。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

二の鳥居をくぐって左の坂を上がっていきます。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

ここは無人の神社なのです。手水舎の水も枯れていて、訪れる人もほとんどいないようです。地元の方々が管理なさっておられるのだと思いますが。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

 

前回は古戦場ならではの負の念を感じてしまってここより先へは進むことができず、神様への感謝をお伝えしてすぐさま退散してしまったのでした。ε=ε=ε=┌(;゚д゚)┘ササッ   今回は目的意識をもってきちんとご参拝させていただきました。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

どうやらここの神社は、河内国一之宮・枚岡神社の分霊をお祀りしているようです。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

「日本最初春日神社」と銘打った額が掲げられています。春日神社は全国に多数あるようですが、ここは最初の春日神社ということなのでしょうか。それなのに、なぜさびれているのでしょう。やはりここは人を寄せ付けない古戦場だからなのでしょうか。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

前回はこの先を進むことができなかったのです。というよりも、牛さんの像があることさえ知らないままに退散してしまったのです。今回はスサノオが古戦場の邪気を払ってくださったおかげで進めそうです。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

「神武天皇 御東征 孔舎衙坂 古戦場」と銘打った碑があります。その横にはなぜ牛さん? 春日の神様なら鹿さんじゃないの? けれども古戦場を御鎮めになるためには荒ぶる神と恐れられたスサノオ(出雲系)=牛頭天王=牛さんの出番ということなのでしょうか。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

この地一帯はくさか山(日下山)であり、大和国に通じるくさか坂(孔舎衙坂)。神武天皇はこの山を越えて大和国を平定しに来られたのです。しかしナガスネヒコに撃退されるのです。

 

 

神武天皇は、この土地を治めているのがニギハヤヒであることを知っていたのです。ニギハヤヒは死者をも蘇らせるという十種の神宝を持っておられた。けれど神武が持っていたのは軍隊でした。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

おそらくナガスネヒコが本気で戦えば、神武を滅ぼしてしまえたのかもしれない。けれどニギハヤヒがそれをさせなかったのは、太陽神の御霊を受け継いだ太陽の民として果たすべきは勝利ではなく「和合」だったから。それが和を最も尊ぶ日本人にとっての使命だったから。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

最強の神スサノオは武力で制圧する道を選択しませんでした。スサノオが目指した国づくりは、横のつながりで手を結んだ調和の国・和国(倭国)。父の建国の手腕を学んだニギハヤヒが目指した国作りは、大調和の国でした。

 

 

出雲は国盗りではなく国作りと国譲りの道を選んだ系譜。和合を果たすことこそが戦って勝つことに勝ることを出雲の神々は知っていたのです。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

ニギハヤヒは十種(とくさ)の神宝を用いて与えて与えて与えてくださった神。そして神武天皇は、武力で奪って奪って奪った神。この相反する神と神との和合は人と人との和合と同じことだと思い知らされるのです。「上の如く、下もまた然り」と。

 

 

わたしたち日本人は、外の世界を変えようとするよりもまず、自分自身の大調和を実践しなければならかったことを思い出すのです。「自分が変われば周りが変わる」。それが宇宙のしくみなのですから。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

        

神武天皇は勝ったように見えて実は試されていたのかもしれない。一万七千年続いた縄文文明とは逆のシステムがいかほどのものであるのかを。

 

 

もっと俯瞰してみれば、試されていたのは我々日本人。どのような状況にあろうとも神と祖先を忘れずにいられるかどうかを。何千年ものあいだ、日本の魂を失わずにいのちをつなげてゆけるかどうかを。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

闇の中でつまづき倒れ、光を探し求めては迷い、文明に埋もれ享楽にひたり溺れたとしても光を希求し続けた魂は、やがて知ることになるのです。

 

 

光は求めずともすでに与えられていたということを。自らが光り輝けば周りを照らすことができるのだと。なぜなら日本人はもともと太陽の民だったから。

 

 

それを神様は筆者の目の前に示してくださいました。なぜならば古戦場に光が・・・。光はそこだけを照らしていて強力なエネルギーに満ちていました。

 

 

神は光。もしかしたら、かつて戦ったこの場所に神武天皇とニギハヤヒがご降臨されたのかもしれないと思いました。この光こそが神々の和合の証だったのかもしれない。そしてナガスネヒコの御霊もこの場に立ち会われたのかもしれないと思いました。その機会を与えてくださったのが春日神社の神様だったのです。

 

 

神々の世界で長く続いた対立の時代はもう終えたのです。和合をもって新たな時代がはじまったのだと思いました。

 

 「鶴」=千年、弥生、伊勢系、天津神、5芒星(火)

 

「亀」=万年、縄文、出雲系、国津神、6芒星(水)

 

「鶴」と「亀」が統(す)べった=「弥生と縄文の和合」=7芒星(光)

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

光が消えたあと、春日神社の神さまにこの場に立ち会わせていただいたことを深く感謝申し上げました。春日神社の本体は、河内国一之宮・枚岡神社です。筆者はすぐさま枚岡神社にご参拝することを決めました。なぜならば、枚岡の神様は筆者の産土の神様だからです。

 

春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)
春日神社(筆者撮影)

 

境内の右奥を見やると、なんと安岡正篤(まさひろ)先生の御名前の刻まれた碑が立っているのを見つけてしまいました。安岡先生は、肝心なところには必ず印を入れておられたのです。石切神社にも碑がありました。安岡先生の旧宅は、ここ春日神社のすぐそばなのです。

 

安岡正篤先生旧宅(筆者撮影)
安岡正篤先生旧宅(筆者撮影)

 

 

安岡先生は日本の国体を守るための陰の立役者である八咫烏ーーーつまり昭和の裏天皇であり、陽明学者として日本の政界財界のトップの人物を精神的指導をなされました。

 

安岡正篤先生旧宅(筆者撮影)
安岡正篤先生旧宅(筆者撮影)

 

 

安岡先生は、なぜ古戦場近くに住んでおられたのでしょう。帝国大学に入学するまでの間、この孔舎衙坂にお住まいだったのは、偶然ではないはず。

 

石切神社 安岡正篤先生の碑(筆者撮影)
石切神社 安岡正篤先生の碑(筆者撮影)

 

そしてなぜ、石切神社と春日神社に安岡先生の碑があるのでしょう。天皇を裏から補佐するということは、事実上天皇を動かしていた方だったということです。

 

石切神社 安岡正篤先生の碑(筆者撮影)
石切神社 安岡正篤先生の碑(筆者撮影)

 

神武天皇を和歌山の熊野から奈良の吉野あたりまでの険しい山道を先導した八咫烏は実在していたわけですが、彼らは神武軍にその土地と民を蹂躙されたにもかかわらず道案内役をし、その後もずっと天皇の補佐をし続けたのはなぜ?

 

熊野本宮大社(筆者撮影)
熊野本宮大社(筆者撮影)

 

かつての古代大和は和歌山、奈良、河内を統べていたのです。もしかしたら、神武天皇に勝たせておいて、その実は八咫烏(出雲系)が天皇の操縦権を握っていたのかもしれない。そんな気がしてきました。

 

 

安岡先生の表の顔は陽明学者でした。とても素晴らしい教えなのに、なぜ日本では陽明学が知られていないのでしょう。日本人が陽明学を学んだら、精神的に成熟できたはずなのにとても残念です。(陽明学とは)

 

石切駅から望む大阪平野(筆者撮影)
石切駅から望む大阪平野(筆者撮影)

 

この日は冬至の翌日。日没までに枚岡神社にたどり着かねば。

 

近鉄奈良線 石切駅(筆者撮影)
近鉄奈良線 石切駅(筆者撮影)

 

近鉄奈良線に乗って、石切から枚岡駅へと向かいます。石切、額田、枚岡は筆者のテリトリーなのです。

 

近鉄奈良線 枚岡駅(筆者撮影)
近鉄奈良線 枚岡駅(筆者撮影)

 

枚岡駅のすぐ目の前に枚岡神社はあります。枚岡神社は元春日として有名で、藤原一門・中臣氏の家系の氏神です。なぜならば、中臣氏の始祖が天児屋根命(あめのこやねのみこと)様だから。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

河内国一之宮・枚岡神社は明治になって官幣大社に格上げされました。対して石切神社は国の政策により取り壊されました。石切と枚岡の神社は正反対の立場ということがわかります。そして筆者はこの二か所の神社の中間地点に生まれ育ったのです。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

子どもの頃は何にも知らずにいましたが、この画像の文字にとても深い意味があったことを枚岡の宮司様は教えてくださいました。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

向かって左側の碑に刻まれた文字は「天孫輔弼(てんそんほひつ)」その意味は、天孫をお助けするお役割を担われた神様であるということです。アマテラスの孫・ニニギの補佐をされ、神武東征の際にも神武天皇をお助けされたのが天児屋根命様なのです。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

向かって右側の碑には「神事宗源」と刻まれた文字があります。天児屋根命様は最初に「天の岩戸開き神事」を担われた神様です。つまり神道奥義である「天の岩戸開き」は、「天児屋根命様が中心となって執り行われ、神武天皇様が大和平定後、橿原宮で初代天皇に即位される3年前にこの地で神武天皇様をお助けされた」と宮司様はおっしゃっていました。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

日没までにご参拝させていただこうと急いだけれど、なぜか夕方にもかかわらずこの人の出。いつもはひっそりしているはずの枚岡神社なのになぜ・・・?

 

枚岡神社HPより
枚岡神社HPより

 

どうやらこの日は枚岡神社の御神事があった日なのでした。それも17時から「天の岩戸開き神事」があったのです。そういえば、日下新池で泳いでいるカモさんからの暗号で読み解いた(カモ⇒賀茂⇒八咫烏⇒神道奥義)

 

 

記紀の奥義の一つに、すべての神道祭祀が開始されたのは、「天の岩戸開き神話」からとあり、「天の岩戸開き神話」において、祭祀の中心はアメノコヤネノミコト(天児屋命)、アメノフトダマノミコト(天太玉命)である。

 

 

その「天の岩戸開き」神事がまさに今、執り行われようとしているその場面に、筆者は立ち会うよう導かれたのです。産土神であるアメノコヤネノミコトさまに。( ゚Д゚)ヒョエー

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

上の写真は11月に撮った写真です。今回は「天の岩戸開き神事」ということで、本殿は隠されていました。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

 

枚岡神社は、神武元年の三年前、つまり2680年前(2017年より)に創立されたとても古い神社なのです。し、知らんかった・・・。 

 

 

枚岡神社は凛としていて格式高いご神氣だと子どものころから感じていました。お宮参りや七五三でもお世話になりました。神社横の枚岡公園ではよく遊ばせていただきました。森だったので秘密基地をつくったり、川でさわがにをつかまえたりしました。本当に枚岡の神様にはお世話になってきたのです。あらためて感謝の思いを深めました。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

御祭神を見て気づいたのですが「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」とはニギハヤヒのことです。もともとこの土地一帯を守っていたのがニギハヤヒですから、別名で祀られていても何ら不思議ではありません。

 

 

ところで神道は古来より、敵対した祟り神を祀ることでその霊力を味方につけてきましたが、それも和合の一つの形だったようです。

 

 

宮司様は「大祓詞」の祝詞を奏上されました。ここでは初音ミクヒメのミコトさまの美声で奏上させていただきます。とても魂に心地よく響くのは、わたしたちが日本人だから。大祓詞は瀬織津姫さまが出てきますよ。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

枚岡の宮司様によるお話がはじまりました。「神武天皇が河内にやってきたときに、ナガスネヒコという強い豪族に阻まれてしまいました。そこで神武天皇は国を平定するために天の岩戸を開いた天児屋根命さまを枚岡でお祀りした」ということでした。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

このあたりの古い地図がありました。筆者にとってはとてもなじみある土地です。神武天皇が攻めてきたルートを下に記してみました。第一回目は海から上陸したのですが、ナガスネヒコに撃退されます。第二回目は熊野から上陸して、暗がり峠を通って南から攻め入るのです。宮司さまはそのようにおっしゃっていました。

 

神武東征ルート想像図(筆者作成)
神武東征ルート想像図(筆者作成)

 

暗がり峠。それは生駒の登山コースであり、日本有数の酷道(国道)で知る人ぞ知る急勾配の狭い道なのです。この道は筆者が幼稚園の頃から年に二回は登らされた生駒山へ続く道。毎年毎年、いやでいやでしょうがなかったこの暗がり峠。まさか神武天皇が通ってきた道だったとは。( ゚Д゚)ヒョエー どんなに過酷な道かをユーチューブにアップされていました。

 

実況!暗峠 大阪編 日本一の急坂酷道って実際どんなんやねん!? 暗峠越えするで〜 国道308号線 (ユーチューブに飛びます)

 

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

神武天皇は神武東征の際の句を『古事記』に残されています。そのうちの二首をご紹介~\(^o^)/

 

 

みつみつし 久米の子等が 垣下に 

 

植ゑし 椒はじかみ口疼ひびく 

 

は忘れじ 撃ちてしやまむ

 

 

【通釈】いさましい久米の者どもの、陣営の垣の下に植えた山椒。その山椒じゃないが、口がひりひりするような恨みを俺は忘れないぞ。やっつけずにおるものか。注:打倒ナガスネヒコを詠んだ歌。

 

 

 

宇陀の 高城たかきに しぎ張る 

 

我が待つや 鴫は障さやらず いすくはし 鯨る 

 

前妻こなみが 菜乞はさば そばの 実の無けくを こきしひゑね 

 

後妻うはなりが 菜乞はさば いちさかき 実のけくを こきだひゑね 

 

ええ しやこしや こはいのごふぞ ああ しやこしや こはあざわらふぞ

 

 

【通釈】宇陀の高台に、鴫を獲ろうと罠を張る。俺が待ってると、鴫は掛からず、りっぱな鯨が掛かった。さあ、皆に御馳走だ。古女房がおかずに欲しがったら、ソバの木の実のように中身の無いのを、たっぷり切ってやれ。新しい女房がおかずに欲しがったら、ヒサカキの実のように大きいのを、たっぷり切ってやれ。ええい、ばかものめざまあみろ、これはののしっているのだぞ。あっはっは、ばかものめざまあみろ、これは嘲笑っているのだぞ。

 

 

注:兄宇迦斯(えうかし)を倒したあと、弟宇迦斯(おとうかし)によって献上された御馳走を兵士らに賜わった時に詠んだ歌。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

たいまつの左側に黒い暗幕がかけられています。ここから先の本殿に向かう階段から上は天の岩戸(暗幕)で閉ざされていました。ちなみにこの日は天皇誕生日。気づかされたのは、石切神社には日の丸は掲げられていなかったこと。そしてその周辺地域でも日の丸を見ることはなかったのでした。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

女神さまによる舞がはじまりました。天の岩戸の奥にアマテラスがお隠れになっているという筋書きならば、岩戸の前で舞っているのは、アメノウズメです。岩戸の前で「わっはっは」と笑い続けると岩戸が開くという神話のストーリーになっているのです。そのときの動画を撮りました。

 

枚岡神社(筆者撮影)
枚岡神社(筆者撮影)

 

参加者全員が宮司さまの先導のあとに「わっはっは」と笑いました。さあ、岩戸がいよいよ開くというまさにそのとき・・・。

 

 

🎶Rrrr・・・🎶 なんと携帯が鳴ったのです!! 

 

 

すぐさま人ごみを掻き分けて人のいないところで電話に出ました。ε=((∩゚д゚)モシモーシ「身内の危篤。至急帰れ」との電話でした。それを聞いた筆者は振り返らずダッシュで駅へ直行しました。

 

 

電車に乗っていて「天の岩戸開き、見られなかったな~」と思いました。そのときは残念に思いましたが、今思うと「見せてもらえなかった」ということだったとわかります。なぜならば、あまりにも絶妙なタイミングで「はい、そこまで」という合図として電話が鳴ったから。(ちなみに身内は翌日に亡くなりました。時代の終焉を示唆されているようでした。)

 

 

枚岡神社の天の岩戸から出てきたのは、おそらくオオヒルメ(現在のアマテラス)だったのでしょう。けれど筆者には、二度目の天の岩戸開きはオオヒルメではないということは明確に知らされていました。だから見せてもらえなかったのだと思います。

 

 

弥生文明はもう終わるのです。終わりのはじまりは、よろこびの時代の幕開けなのです。